『人を賢くする道具 』「第2章 世界を体験する」のレジュメ
どんなことが書かれていたか?
この章では、体験と内省の2つのモードと学びの関係についてが書かれている。
前章に引き続き、体験と内省の2つの認知のモードについての説明がされる。前章でも指摘があったように、テクノロジーは体験的あるいは内省的のどちらか一方へと向かわせる傾向があり、特に現代では内省的であるべきときに体験してしまうことが脅威である。
本章では体験と内省の2種類の認知に加えて、3種類の学習を説明する。3種類の学習とは、①蓄積(accretion)、②調整(tuning)、③再構造化(restructuring)である。蓄積と調整は体験モードに、再構造化は内省モードに対応する。
本章において筆者は、「至高のフロー」を手がかりに学校教育の問題点を指摘する。至高のフローとは、集中し没頭している状態のことである。一方、学校教育の対比としてゲームの優れた点を提示する。ゲームは新しいチャレンジが次々と与えられることで注意が維持されるといったように至高のフローが生まれやすいように設計されていると評価する。一方、教育はそれがなく、注意を維持するための対策なしに、集中することを要求していると批判する。加えて、科学博物館やマルチメディアの例を挙げて、それらが体験的認知に重点を置きすぎた結果、内省的学習につながっていないことを批判する。
筆者はゲームやゲームセンターに学びのヒントがあると指摘する。良いプレイヤーになるためには体験モードである集中が必要だが、学び、向上し、自分自身を鍛えるためには自分のパフォーマンスに対する内省が必要である。しかし、これを自分自身でやるのは難しいため、コーチが必要になることがある。コーチは学びに必要な条件を注意深く設定し、フィードバックとガイダンスを適切に与える存在である。ゲーム、特にゲームセンターにはこのコーチの仕組みが組み込まれており、体験モードでの体験と内省モードでの体験の双方が与えられた学びが生まれていることを指摘する。
とはいえ、ゲームを手放しで褒めているわけではない。あくまでも筆者の主張は、体験と内省の両方が必要であるという立場である。ただ、教育に必要な学習が、ゲームの学習と同じように魅力的で楽しくあっていけない理由はないと考えている。教育者は学習すべきことを知っていて、ゲームといったエンターテインメント側は興味と興奮を作り出す方法を知っている。だとすれば、教師とエンターテイメントの両者がそれぞれが尽くせる最善のことを組み合わせるインフォーマルな学習と学校での学習の組み合わせが必要だと主張するのである。
感想や思ったこと
コーチの話に続くゲームセンターの話が良かった。ゲームセンターでは、プレーだけではなく、お互いに教え合い、情報を交換しあい、学習が生じているという話。環読プロジェクトでは、これが起こることが期待できるかもしれない。教育の現場とはまた違う学びの場だからだ。倉下さんが主催しているものの、教師ではない。お互いが時には教え、時には教えられる関係をインターネットで実現する可能性のある取組みだと思う。